秋の日は鶴瓶落としと言うけれどずいぶん日暮れが早くなったと思いながら腰を上げようとした時スマホの着信音がなった。
【しばらく、元気?】といつも通りの明るく伸びやかな声が耳に響いた。その声を聴いただけでわたしは嬉しくて気持ちも軽やかになる。
子供が小さかったころ住んでいた家の隣人で腕白坊主2人を育てていたわたしはずいぶんお世話になった。
友人には2人の娘がいたが長女を高校生の時病気で亡くされ筆舌に尽くしがたい苦しみをのり超えてこられた。
わたしは種々の事情で今は他県に住んでいる。
友人は90歳、わたしは84歳になった。
今も、月に一度連絡を取り合い近況など話し合っている。友人はご主人をすでに亡くされ、次女は嫁いだので大きな家に一人で暮らしている。
毎日、新聞をくまなく読みテレビのニュース、情報番組などを見て世の中の動きに興味関心を寄せている。
日常は栄養のバランスを考えた食事を心がけ、健康に関する情報で良いと思うことは出来る範囲で取り入れている。
隣に住んでいた頃は手入れのゆき届いた庭に四季折々の花が咲き乱れ道行く人が思わず足を止めてみとれるほどだった。
今は庭の手入れも大変なので宿根の菊やフジバカマなどが咲いているだけといって笑っている。
洗濯物は二階のベランダに干しているという。階段は手すりにつかまり全神経を集中して一歩一歩ゆっくり上り降りしている。それが良い運動になっているそうだ。
友人は今迄の人生で病院にいくような怪我はしていないという。
あまり言わないけれど怪我をしないように、病気をしないように細心の注意を払って生活しておられる様子が伝わってくる。それは嫁いでいる娘さんに心配や迷惑をかけたくないという親心からだと思う。娘を思う一心から腰を据えて日々を過ごしておられるのだ。娘さんへの限りない深い愛情を言葉のはしはしに感じている。
それに引き換えわたしは直近一年の間に3回も怪我をして都合3か月半入院しその後今も通院している。
家族に多大な心配と迷惑をかけている。
気を付けているつもりなのにどうして・・・と内心思ったがそれが甘いのだと思う。
高齢だという自覚が足りず注意力に欠けていたことが全てだと思う。
90歳になられても生活の礎を何より大切にされている友人の姿勢を見習いたいと強く思っている。
もう一人93歳になる友人が青森県にいる。
わたしは70代の時、青森県に10年ほど住んでいたが,地元の公民館活動の一つである俳句教室で知り合った友人である。
俳句の基礎がないまま安易な気持ちで入会したわたしはメンバーのレベルが高く当初はついてゆけないと思った。きっと友人が隣の席でなかったら続けられなかったと思っている。友人は学校の先生をされていた方でわたしが恥ずかしいほど初歩的な事を聞いても何時もやさしく解かりやすく教えてくれた。お陰で3年を過ぎた頃作句が楽しいと思うようになった。
飾らない人柄に惹かれて俳句仲間とお宅に寄せてもらい,その日の句会で感動したこと疑問に思ったことなど忌憚なく話し合い充実した時をすごさせてもらった。
わたしが青森を去る時いただいた津軽塗の夫婦箸はもう使い始めて何年にもなるのに美しい光沢は少しも衰えていない。
友人は無理をせずご自分のペースで日々の生活を楽しんでいる。歯切れよく話す言葉にウイットがあり、温かさがあって誰もがその人柄に魅了される。
高齢になってもこんなに魅力的なのは内面が豊かだからだと思う。積み重ねられた豊富な知識と才知や洞察力に加え、温かくやさしい気持ちで回りを気遣って下さる。
わたしには友人のようには到底なれないけれど万分の一でも見習いたいと思っている。
わたしにできることは学ぶ気持ちを持ち続けることだと思っている。日々過ごす中からさまざまな学ぶチャンスをとらえ心にとどめ、考えを広げる。わたしは大小の失敗が多く落ち込むことが多い。人にはどんなに深い谷に足を滑らせても大抵這い上がる力がある。そこから立ち上がった時たくさんのことを学んでいる。
また新聞の記事一つ読んでもさまざまな考え方のあることを知る。知らなかったことを知った時小さな喜びに変わる。
日々の小さな勉強の積み重ねが自信に繋がる。その自信の積み重ねを心の栄養にして周りの人に優しく温かくできる人になりたい。
わたしには見習うべき師といえる友人のいることを幸せに思っている。
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