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強くて優しかった母を思う

父が戦死した時母は33歳、わたしは8歳、弟は6歳だった。

母は洋品店の仕立物の内職をして生計を立てていたので、朝から晩までミシンを踏んでいた。わたしは疲れている母が少しでも休んでほしいと思い小学2年生から食事の支度など家事全般を手伝っていた。

一方弟は腕白盛りで母や私を困らせてばかりいた。それは日々の我慢のうっ憤を晴らしているかのようだった。母はそんな弟を頭から叱りつけず自分のそばに引き寄せて時間をかけて言い聞かせていた。

子供だったわたしはそういう母を不満に思って「弟は悪いことをしたのにどうしてもっと厳しく叱らないの?」と問いかけると母は、「弟は腕白坊主で強そうに見えるけれど本当は気持ちが小さく弱いの。強そうにみせているだけなの」と言った。

戦後の物資不足、インフレなどの荒波を経済的基盤がないなか33歳の若さで子供二人を育てていかなければならない重責に耐えていた母はどんなに苦しかっただろう。

子供時代とはいえわたしは母の気持ちを汲み取れず(弟ばかりに優しくして)と内心不満に思ったりもした自分を今になっても悔いている。

性格の明るい母は多くの友人に恵まれ、親子三人細々と暮らしていた私たちは精神的に随分助けてもらった。学校の先生方が何人かで寄ってくれる時は特に楽しかった。

ジェスチャー交じりでいろいろな話をして盛り上がり笑い声が堪えなかった。みんなで大きな声で【青い山脈】【雪の降る街を】【海】【虫の声】・・・などの歌を斉唱したり輪唱したりした。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいみんなが帰るときはとてもさみしかった。

母は苦しい生活の中にあってもわたしたちがなるべく精神的に豊かに成長してゆくように望み、住んでいた富士の裾野の美しい自然に触れさせようと仕事の手を休めて四季折々野山に連れ出してくれた。

春、田んぼは蓮華草でうまり、まるでピンクの絨毯を敷き詰めたようだった。

またクローバーの白い花を摘んで首飾りをつくり、長さを競い合った。

四方の山々に向かって呼びかけると谺がかえってくるのが楽しくて夕暮れ迄遊んでいたのを懐かしく思い出す

 また町の映画館で良い映画が上映されると、母の友人たちと観にいった。壺井栄の不朽の名作【二十四の瞳】を観て感動し、その後本も何回も読んだ。

母はこどもの成長過程は心が汚れていないので、なるべく美しい自然や人々の温かい心に触れて、醜いものはなるべくみないほうがいいという考えだった。

しかし私と弟は幼くして何より恐ろしい戦争体験をした。

母はきっとその思いをかき消してしまいたくて苦しんだに違いない。あの頃わたしたちは戦争の話は一切しなかった。

母は苦しい生活の中、仕事の手を休めて子どもと共に過ごす時間を作ってくれたのは実際問題大変だったと思う。それは母のこのような考えに基づいてのことだったのだろう。

ただこの考え方は人それぞれだと思っている。

その頃の 母のおしゃれは洗濯をした割烹着だった。洗濯をしたばかりの真っ白な割烹着をつけた母は子供心に (お母さんきれい!) と思った。

母は癌を患い55歳で亡くなった。

長い間、全身全霊をかたむけてわたしたちを育ててくれ、二人は一人前になれた。

母はこれから自分の人生を歩んでいけると信じて疑わなかったのに・・・

 母は余命3ヶ月と宣告され入院したが、私と弟は絶対奇跡が起きることを信じて懸命に看病したが叶わなかった。

 弟は証券会社に勤めていたが土曜日になると遠方から3時間かけて東京の病院に駆けつけた。勤務地が海に面していたのでアイスボックスの中に最高級の刺身を入れ毎回持ってきていた。母にたべさせたくて口元にはこんでも一切れ食べるのがやっとだったが・・・

弟は夜母のベッドに入って眠った。

 

翌日帰る時は母を抱きしめ顔中頬ずりして何度も振り返りながら「また来るからね」と言って病室をでるのである。

 

 そばであの腕白時代の弟を思って涙がとまらなかった.

いまは母と弟は同じ墓地に眠っている。いや千の風になってこの地の大空を吹きわたっていると信じている。

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84歳のおばあちゃんです。
毎日楽しく過ごしてます。
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