ロシアのウクライナへの侵攻は決して許されるものではない。
連日テレビで放映される無残な戦禍の映像をわたしは直視することが出来ない。爆撃で崩壊した膨大ながれき、撃ち込まれる砲弾を避けながら逃げ惑う人々、その中には子供達の姿もある。澄んだ大きな目を見開いて母親の手をしっかり握り、片時も離れまいとしているけなげな姿、なにゆえにこんな思いをさせなければならないのだろうか。
ロシア軍の侵攻が続くウクライナ南東部のマリウポリの市当局は3月28日、露軍による包囲の中、子供約210人が死亡したとする推計を発表した【3月30日.毎日新聞】
この記事を見てわたしの心は震えた。子供たちはこの戦争の意味など何も分からない。直近までこんな運命が待っていようとは微塵も思わなかっただろうにあまりにも惨い。絶対に許されることではない。
1945年太平洋戦争終戦の時、わたしは満洲の新京市に住んでいた。当時7歳だったわたしは今のウクライナの子供たちとほとんど同じ体験をした。
父は教師をしていたが終戦の3ヶ月前、5月に召集になり戦地に向かった。残された母子三人は空襲警報が一日に何回もなりB29が飛来する中、恐怖におののきながら避難を繰り返していた。そして8月15日終戦を迎えたのである。
終戦と同時に街は暴動、略奪が横行し日本人はほとんどのものを中国人に奪われ、僅かな貴重品を隠し持って着の身着のままで安全な居場所を見つけ転々とした。そこにロシア兵が踏み込んできて銃を突きつけられ心臓が止まるほどの恐ろしい思いもした。
1946年6月私たち母子3人は日本へ向かう引き揚船の出る港に向うため無蓋の貨物列車に乗った。その車中の恐ろしい出来事が今も鮮明に蘇える。
長く連なった貨物列車はすし詰め状態で座ることもできず、ほとんどの人が立ったままだった。屋根がないので滂沱のごとく降る雨にもうたれつづけ、飢えと疲労、極端にわるい衛生状態で一日に何人もの人が亡くなった。亡くなった人の遺体は走っている列車から投げ捨てるように命ぜられるのである。命令に従わなければ残された家族も殺されそうになる。遺体との別れの時、肉親の振り絞る獣のような叫び声を今でもはっきり覚えている。
また列車に向かって中国人やロシア兵が砲弾を撃ち込み列車が止められることが度々あり,恐ろしくて息を殺して鉄砲の音の鎮まるのをまった。
また母にあなたたちが離れ離れになったら、そのままここに置いていくので『絶対に離れないように』と何度も言われ、弟とわたしは母の手が千切れるほど必死で握っていた。
港に着くまで3日ぐらいかかっただろうか。疲労で意識が混濁して当時のことをあまりよく覚えていない。
日本に帰ってからの母子3人の生活は苦しかったが、父が帰還するまでとひたすら
待ち続けた。しかしその願いはかなわず1947年1月父の戦死の広報が届いた。遺髪も爪もなくただの紙切れ1枚だけだった。
後で分かったことだが父は捕虜としてシベリアに抑留され極寒のなか強制労働を強いられ、食事は僅かしか与えられず、栄養失調で戦病死したと告げられた。
わたしは高校生の頃、父の理不尽な戦死について考え悩むようになった。
父は教育者として高い志をもって日々励んでいたと母からよく聞いていた。子煩悩な父で家族は幸せだった。そんな父が戦地に発つ時の悲痛な表情を7歳だったわたしは、はっきり覚えている。
なぜ父は終戦の僅か3ヶ月前に召集になり前述のような悲惨な死に方をしなければならなかったのか。極寒のシベリアでは朝になると何人も凍え死んでいて遺体は大きな穴を掘って無造作に投げ込まれていったという。
父はこんな死に方で42歳の生涯を終るなんてどんなに無念だったろうか。
一方 父のいない私たち家族の生活は困難を極めた。貧乏に段階があるとしたらかなり下のほう方だったと思う。
母の娘時代は恵まれた環境で育ち現存する横浜のミッションスクールに静岡から寄宿舎に入って学んだ。英語が堪能でわたしたちの気持ちが落ち込むと美しいソプラノで英語の讃美歌を歌ってくれた。聞いているとわたしたちの心は和んだ。
母は小学校の先生を少ししたが子供を預かってもらえるところがないので、家でできる仕事をしたいと洋品店の洋服の仕立てをして生計をたてていた。けれど夜遅くまで仕事をしても安定した収入は得られず生活は大変で、わたしは学校の必要なお金もなかなか言い出せなかった。中学3年になったとき2歳違いの弟の進学を優先してわたしは働くつもりでいた。しかし母は【教育には時期がある。お嫁にいくときの支度はしてあげられないかもしれないが、お母さんは高校にいくほうが余程大切だとおもう】と説得された。あの頃はまだ誰もが高校に進学する時代ではなかった。わたしは困窮時代にもかかわらず母がわたしにあった選択をしてくれたことに今でも感謝している。
わたしは父のこと、そして自分たちの長く続く苦しい生活に、こういう思いをしているのはわたしたちだけではない。もっともっと辛い人がいると分かっているのだが苦しさから逃れられなかった。悩んだ末わたしは一切を封印するしかないと考えた。
それからは誰かに戦争を話すと自分が苦しくなるので胸の内を家族にもほとんど話していない。
今回ロシアがウクライナに仕掛けた戦争によって子供や罪のない人たちが次々殺害され、
何百万人の人々が国外への脱出を強いられている。
今回の戦争がロシア側にいかなる理由があるのか浅学なわたしはすべてを理解してはいない。しかし戦争は絶対に許されない。一人の命の重みをなんと考えているのだろうか。亡くなった子供たち一人一人には素晴らしい未来があったにちがいない。この強い憤りをどこにもっていったらいいのだろうか。
戦争を止めるにはさまざまな難しい問題のあることも分かるが、何とか世界が一つになって知恵を絞り1秒でも早く終戦に繋がるように強く願っている。
わたしも高齢になったのでそろそろ封印を解いて戦争がどれほど愚かな事かを子や孫たちに語り継いかなければならないと思うようになった。
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